2008.3.31

三男瑞丈のパートナーなおかさんのお父上の49日の法要に間に合うように、29日の朝7時20分のJALで、叡と金沢の小松空港に向う。東京を出る時は、朝日の心地よい冷たさが昼の暖かさを十分に予感させてくれたが、小松空港に着いたら、急に冬に戻ってしまった。遠くに見える山の稜線は白く、高速道路の両側に広がる畑にはところどころ雪が残っている。上村家に向う僅かな間にも、深くたれ込めた雲間から、急に大粒の雨が、瑞丈の運転する車のフロントグラスを強打し始める。
私がなおかさんのお父さんに生前お会いできたのは、たった二回だ。一度はなおかさんのダンスの会を観に上京なさった折(挨拶程度の出会いだったと思う)、二回目は去年5月5日の瑞丈となおかさんの結婚式の日である。お父さんはその半年前ぐらいに腎臓癌と診断され、以来、手術はしないで病院で治療を受けておられるとお聞きしていた。丁度5月には治療が一段落し、ご自宅に戻られるそうなので、兼六園のとなりにある石浦神社で内々で式を執り行なうことになり、東京ではめったに顔を会わさない3人の息子、その連れ合い、孫娘と久しぶりで全員が揃って金沢に赴いた。そんな楽しく仕合わせな時間が持てたのも、今から思えばなおかさんのお父さんが用意して下さったのでは、と感謝している。既にその頃は骨にまで癌が転移していた様で、かなりのお痛みがおありになったのでは、と思う。少しもそのようなご様子も見せず、口元に優しい笑みを浮かべて静かに“今の時”を喜び楽しんでおられるお姿がとても印象的だった。
それから9ヶ月入退院をくり返されていらっしゃると、なおかさんから聞いていた。容態が悪化して入院なさったと知ったのは、今年の2月シアタートラムの「透明迷宮」の公演が終わってからだ。高椅悠治さんのピアノ演奏でバッハの「フーガの技法」を叡の即興、振り付け、オイリュトミーの3バージョンのプログラムで創り、なおかさんと瑞丈は振り付けのプログラムに出演。二人とも1月はほとんど毎日天使館で稽古に励んでいた。後で伺った話では、一月中旬に救急車で入院されたそうだ。なおかさんのお姉さんも東京在住で、娘さんの高校受験の発表が一月末にあり、やはりお父さんの入院の知らせを2月になってから聞いたらしい。そんなお母さんのお心遣いにふれて、自分に強く生きる事というのは、他者に対する優しさであり、思いやりなのだと思った。
ワシントンのケネディーセンターの公演に行く前にお見舞いしたいと思い、2月9日叡と羽田に向う途中、瑞丈からお父さんの訃報が入り、病院ではなく上村家に伺うようにと知らせて来た。
10ヶ月前、結婚のご挨拶で伺って以来、二度目の訪問である。お父さんのためにリホームして出来あがったばかりの新しいお部屋に、安らかに寝ていらしゃる。鼻筋がピンと高く、色白で透き通るような美しい肌をしている。なぜか頬がうっすらと赤みが差していて、少年のようにも見える。薄い口元から今にも笑みがこぼれそう。寡黙な人。粋な人。茶目っ気のある人。二枚目。頑固な人。お酒好きでマージャンが好きな人。シャイな人。我慢強い人。ありとあらゆるお父さんが部屋中にひろがっている。
さまざまな肉体の衣装を脱ぎ捨てて、お父さんがそこに在り、淡々と死を生きている。
それから49日。三度目の上村家の訪問。なおかさんのお父さんの死は、新しい人新しい土地との生きた出会いを私に与え続けてくれている。

最後になったが、実は私明日からしばらく眼科に入院するので、日記もお休み。

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2008.3.27

まる5年住んだドイツから帰国したのは、今からかれこれ20年以上前の春のこと、久しぶりに我家の夜を過ごした翌朝、懐かしく暖かい綿蒲団から離れがたく、ぐずぐずしていると「デデッポッポー、デデッポッポー」とこれまた懐かしい鳴き声が聴こえるではないか。山鳩だろうか。その親しみのこもった濁音が、枕に頭をのせている私の耳に水平に聴こえて来た。雀の鳴き声も直ぐそばで聴こえる。ああ、日本の春の和やかさ。そろそろと起き出して国分寺のお寺まで出てみると、桜が満開だ。汗ばむほどの暖かさが、思わず身も心も柔らかくしてくれる。桜の花びらが輪廓を失い、色が流れ出して、空気をピンクに染めている。すでに膨らみだした新芽も、春の陽光の中に浅黄色を滲ませている。私の身体も春の色合い。すべてが融け合い、まるで母親の懐のよう。

今から四半世紀も前の春のこと、ドイツの地で初めて夜を過ごした次の日の朝、鳥の声で目が覚めた。ピッピーと張りつめた空気を鋭く振動させ、私の頭の上に垂直に響いてきた。なんと清らかな鳴き声か。それから辺りを散歩しに出た。整然と並んだ家々の垣根には黄色や赤や紫や白など様々な色の花が咲き乱れ、透明な空気の中でそれぞれの花びらの輪廓を際立たせている。冷たい大気に光の粒子が燦々と輝いている。
   地面に近く 美しい蝶が
   注意ぶかい自然に向って
   つばさの本をひろげて
   色刷りの模様をみせている    R.M.リルケ

さまざまな春の体験から・・・・。

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2008.3.26

雑誌の広告のキャッチコピーに芭蕉の句があった。
 “さまざまな事をおもひ出す桜かな”
私が叡と結婚したのは40年前の春。
私が慢性関節リウマチと診断を下されたのは31年前の春。以来リウマチは私と共に成長し続けている。
28年前家族と共にドイツに渡たったのも桜の頃、6年後帰国したのも桜の頃。
17年前、長男の胃腸手術(危機一髪で命が助かった)がきっかけとなって、3年以上に亘る鬱病から次第に光が見えてきたのも桜の頃。毎日、黙々として府中刑務所の脇の道を自転車で長男を見舞いに行く。その時目に入って来た空の青と桜の花の色は今でも忘れられない。
9年前、三井記念病院で頚椎の手術を受ける。3ヶ月の入院。一ヶ月間はベット上で寝たきり状態が続く。或る日、看護婦さんが桜の花びらを取ってきてくれる。うれしかった。押し花にして、いまでも本の間にある。
まだまだ思いだすとさまざまある。桜の頃の思い出は事欠かない。桜の花びらが風に吹かれて舞うように、さまざまな事が心の中に美しく思いだされる。

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2008.3.24

今日は雨ふり。テアトロ新宿で若松孝ニの映画「実録・連合赤軍」をやっているという。見なければ、とちょっと心が動いたが、どうしようか。1972年の2月、当時100歳にならんとしていた叡のおばあちゃんは、あさま山荘人質事件のテレビ生中継を毎日連続ドラマを楽しむように見ているよ、と親戚のおばさんが言っていたのを思いだす。
その頃の私はどうだったのか。今日写真家になった長男はその年の2月3日に二歳になったばかり。前年の夏には一年がかりで建てた手造りの稽古場が完成、舞踏研究所「天使館」を設立。お金は無いけどエネルギー満々の若者たちが、何処からともなく「天使館」に集まってきて、叡を中心に週4回の踊りの稽古。同時に71年10月「丘の麓」青年座、72年1月「タンホイザー?氈v厚生年金小ホール、8月「三つの秘蹟のための舞踏会」厚生年金小ホール等々、と叡のソロ公演、天使館公演と、矢継ぎ早に制作していた頃のこと。みんな何かを創ることそれ自体に向ってエネルギーを集中し、行動することに自分の力を惜しむ者はいなかった。稽古場の中は完全に自由。何をしてもよかった。自分の“ことば”を身体で語り、他者の“ことば”身体で聴く。稽古の後は、お互いに口角沫を飛ばし議論し合い、終いには一触即発状態になったりもするが、必ず「まぁまぁ」と間に入る者がいたりして、その場は収まり、後は呑んだり食べてたり、なんのわだかまりも残らない。何と熱い空間と時間だったことか。恐らく連合赤軍の若者たちも、天使館に集まった若者たちの魂の有り様とさほど違わなかったのではあるまいか。
それにしても、仲間同志の殺し合いなんてなんと凄惨なことが起ってしまったのだろうか。同じ時代に同じように生きていた同世代の出来事であり、それを知った時の驚きと痛みは今でも変わらない。まして主犯格の永田洋子は私と同じ年であり、死刑を宣告されながらも今なお刑に服しつつ、私と同じ時代を生きている。 

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2008.3.21

先日知り合いにのダンス公演を観に行った。若い人が中心のカンパニーなので当然客席も若い男女が多い。中には白髪の初老の男性や、髭もじゃのおじさん、出演者の身内らしき人などが見受けられる。多くはダンサーやミュージシャンの卵、あるいは何かダンスに関わっていそうな人などなど。めったに八百屋のおじさん肉屋のおばさん風の人はいない。ダンス公演でもコンテンポラリーの公演と舞踏公演では明らかに観客がちがう。芝居になるともっとちがう。
3年前南米チリのサンチャゴで叡が公演をした。サンチャゴにある日本大使館の後援で、市民のためのダンス公演なので、入場料無料の二日公演。会場は手ごろな広さで、天井は高くどっしりとしたクラシックな雰囲気で悪くない。が、いくら日本からやって来たとはいえ、当地では全く無名のダンサーを、しかも無料の公演を誰が観にくるのだろうか、しかも二日間も、といささか不安だった。
さて初日、開演時間が迫るにつれて、何やら劇場の入り口が騒がしい。中から覗いてみると入り口の扉の向こう側におびただしい群衆が押し寄せているではないか。前列の人はガラスの扉に張り付いてドンドンと乱暴にガラスを叩いてわめいている。中側からはスタッフが興奮して怒鳴っている。一触即発状態だ。現地の人に聞くと、みんな叡の公演を観に来た人たちだ、と言う。嬉しいことだが、けが人がでなければ心配していると、制服制帽で身を固めブーツを履いたがっしりした警官が二人乗込んできたのには驚いた。結局入りきれない人が数百人あえなく帰されたそうだ。
これが日本だったらどうだろう。最も遠い国からやってきた、日本では知名度の全く無いダンサーが公演をするとしたら、お客は来るだろうか。たとえ入場無料でも、いや無料だからこそ、人々の関心は期待できない。
チリとは“世界の果て”という意味だそうだ。日本から最も遠い国で、隣のおじさんおばさんのような気の置けない人々と出会えて幸せだった。
それにしてもダンスって何なのだろ?

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2008.3.20

昨日はお彼岸のお墓参りのため、姉たち二人と四谷二丁目の愛染院で待ち合わせをする。お昼前の空いた快速電車に乗って座り、先日長男がくれた亀山郁夫の新訳「カラマーゾフの兄弟5」を開いたが、いつものことで半ページも読まない内に、心地よい睡魔が訪れた。停車毎のざわめきがわずかに覚醒を促すが、電車が動き始めると再び眠りの世界に沈んでしまう。新宿到着を伝える車内アナウンスが遥か彼方に聴こえてきて、ようやく目が覚めてきた。気が付くと隣りは若い女性に変わっていて、その彼女が何やら小さな手鏡を取り出して化粧を始めた。睫を丁寧にカールして、マスカラを注意深く塗り、次はシャドーだ。矯めつ眇めつ小さな鏡とにらめっこしながら、次第に美しくなっていく自分に惚れ惚れしているのだろう。その一心不乱の動作は、誰も口を挟めないほどの気合いがこもっている。彼女の短時間に変身する早業を思うと、この車内化粧室は、既に彼女の日常になっているのだろう。
25年以上前ドイツに住んでいた頃、市電に乗っていて気がついたのだが、車内で本はおろか新聞でさえ何かを読んでいる人はほとんど見かけなかった。みんな腰を垂直に姿勢を正して座り、真っ正面を向いて決して居眠りをしない。勿論老若男女問わずみんなだ。その時”わぁ~スゴイ、ゲルマン民族って!”と感心したのを思いだした。でも、今でもそうか一向知らない。
あれやこれや思いつつため息をついていると、電車は四ッ谷に着いた。彼女はその後櫛で髪型も整えるのだろうか?そんなに時間がないのだろうか?

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