2008.9.30

何時だか誰かに「“生きのびるためには2冊の本しか持って行けない、後は全部捨ててください”と言われたら、あなたどうする?」と聞かれた。当の本人は 「一冊目は稲垣足穂の『一千一秒物語』と・・・」と考えている。イナガキタルホもいいけど・・・わたしだったら、ポール・ギャリコの『雪のひとひら』は 持って行きたいなぁ。美しいし、温かいし、力強いし、なにより読んでいて肩が凝らない。
国文学者の藤村潔は、胸ポケットに『源氏物語』を入れて、零下43度まで下がるシベリアの捕虜収容所で6年を過ごしたという。飢えと寒さのなかで『源氏』の言葉の響きが、彼にとって命の糧だったのだろう。
敬愛する詩人故吉岡実は、昭和16年夏満州に出征する時、わずかに許される私物の中に、ゲーテの『親和力』とリルケの『ロダン』を入れた。偉大なロダンの精神と彫刻を賛美して展開する“詩論”ともいえる詩人リルケの言葉は、吉岡実にとって真の啓示だったと後で書いている。
シンガポールに滞在している間に『ベルリン終戦日記』(ある女性の記録)を読んだ。戦争に巻き込まれた女性が自らの凄まじい体験を、これほどまで客観的に言葉にしたのを読んだのは初めてだ。
1945年4月ベルリン陥落の前夜から、34歳の女性ジャーナリストは日々の出来事をひたすら書き綴った。空襲、飢餓、略奪、陵辱の狭間から覗く未来は “鉛のように”重い。教会のミサに行けば、”生きる糧となるような心の言葉”が得られるのかと、無宗教の彼女は”闇の中でただひとり”苦しみ、”絶望的に 孤立無援”の最中にあって、鉛のように重くのしかかってくる未来に抵抗して、”身内にある炎を消さないように努めている”。きっと日記を書き続けること が、彼女の内なる炎を燃え続けさせたのだろう。
数日前に読み終わった『寡黙なる巨人』(多田富雄著)の跋に、脳梗塞に倒れ、言葉を失い、突然重度の身体障害者を甘んずることになった免疫学者である著者は、こう記している。
「重度の障害を持ち、声も発せず、社会の中では最弱者となったおかげで、私は強い発言力をもつ『巨  人』になったのだ。言葉はしゃべれないが、皮肉にも言葉の力を使って生きるのだ」
最後に吉岡実の未亡人陽子さんから伺った話。
吉岡さんとの新婚の頃、彼女は生活費をリルケの詩集の間にそっと差し込み、必要なものを買うときは心の中で「リルケさんから借りましょう」と言って、苦しい生活をやりくりしていたそうだ。
“はじめにことばありき”いい言葉だなぁ!さて、読書の秋、次は何を読もうかな・・・・。

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2008.9.22

「世界的ステージのために設計されたエスプラネードはシアターとしてはもちろん、様々な料理が楽しめるお食事スポットとしても有名です」とシンガポール観光ガイドにあるエスプラネードの中の劇場で、叡が「花粉革命」を踊った。9月12、13の二回公演。
スタジオを表す表札には、英語、マレー語、中国語、アラブ語の4つの言語が並んでいる。空港に迎えにきてくれたのは、現在マスメディア・コミュニケーショ ンを学んでいる女子大生で、日常会話程度の日本語ができる中国系のクレアさん。彼女に尋ねると「シンガポールでは英語が日常語です。でも私日本語をもっと 勉強したいです」と言った。車の運転手とクレアの話しっぷりは、中国語そのもので、英語の単語はちっとも聞こえてこない。かろうじて、右、左は聞き取れ た。後で聞いたのだが、そういうのをシングリシュと言うそうだ。
先月行ったブラジルも人種が混血されていて様々な肌の色の人が共存していたが、シンガポールはどちらかというと、人種が入り乱れること無く仲良く共存しているようにみえた。コスモポリタンとはこういうのを言うのだろうか?
公演の主催者の、やはり中国系の青年プロデューサーであるキムセンさんに「自分と国とのアイデンティティは何処にあるのですか?」と誰かが質問したら、彼 は「自分はずーっとこの国に住むつもりはありません。今ここにいるだけです。つまり、シンガポールはトランジットの国です」と答えていた。
滞在最後の日、シンガポールに英国の東洋の基地を建設したラッフルズ卿に因んだラッフルズホテルに行ってみた。さすがに古風で落ち着いた気品に満ちた趣深 い雰囲気で、サマセット・モームやジョセフ・コンラッドが投宿したというのも頷ける。彫りが深く理知的な面立ち、漆黒な肌にターバンを巻いたインド人の サーバントたちは真っ白な制服で身を包み、植民地支配者である西洋人に至れり尽くせりの世話をしたのだろう。
熱帯の木々を生い茂らせた中庭で籐椅子に座って、注文したアフタヌーン・ティーを待ちながら、最先端の国際都市シンガポールに残っているヨーロッパ植民地 時代の面影を、この高級ホテルに感じながら、キムセンさんの「シンガポールはトランジットの国」という言葉を思い出した。
空港まで送ってくれたクレアは、「私、来週ソウルに留学します。韓国語の勉強のためです」と言った。
私は「もう少し、日本語をがんばってからにしたら」と言いたかったけど、まあいいか・・・

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2008.9.6

8月は、15日間ほどブラジルに行ってきた。そしてまた来週の火曜日からシンガポールに出かける。
ブラジルの首都ブラジリアからサンパウロ、ニューヨーク経由で、約30時間の行程で成田に着き、家で一晩寝ると、赤道直下のマナウスで遊覧船に乗り、ニグ ロ川からアマゾン川へ進み、途中ジャングルの中に入ってワニを目撃、などなどは夢のまた夢。さあまた、15日前の国分寺の日常の続きが始まった。
主の留守の間にも、庭の木々は盛りの夏を謳歌していたのだろう、狭い所で一斉に葉を茂らせ目を細めて眺めれば、ジャングルと言えなくもない。8年ぐらい前 に大切な人から頂いたクリスマスローズの鉢植えを、出発前に地に下ろしてやったのが、留守の間に来てくれた草取りのおじさんが抜いてしまったのか、姿形が 見えない。毎年、純白の花弁のふちが幽かに薄紫色に染まり、贈り主にも似て清楚で美しく、特に好きな花だったのでいたくがっかりした。自分で草取りができ ないのだから仕方が無い。
2、3日して生活のリズムが戻ってくると、サンパウロで乗ったタクシーの日系2世の運転手さん、日本食堂「ひまわり」を経営しているおばさん、通訳をして くれた日系三世のお嬢さん等、ブラジルで出会った人たちが心の中に思い浮かんでくる。1927年頃日本から移住した方達を両親に持つ人たちだ。親の郷里を 尋ねると、長崎だったり群馬だったり様々だ。日本から初めて移住した人たちは、さぞかし苦労なさったことだろう。しかし、そこで生まれた二世の人たちは、 すでにブラジルに根を張り生活の基盤がそこにある。
ブラジルでは異民族同士のぶつかりは無いと聞いた。確かに皮膚の色の 違いを問題にしないおおらかさがある。格差社会で治安が悪いのは玉に傷。でもそれは”いづこもおなじ秋のゆうぐれ~”。
さて、シンガポールは初めて行く東南アジアの国。どんな人たちに出会うだろう。

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