チカシクンの壷

今日の午前中のことです。

駅ビルの花屋さんに、桜の枝が売られていました。啓翁桜(?)と書かれていたと思います。

急に嬉しくなり、ひと枝買ってきて、食卓の上に置いてある「チカシクンの壷」に生けました。

「チカシクンの壷」とは、長男が14歳の頃、学校で創った陶器の壷のことです。

その頃、私たち一家5人は、西ドイツ(東西はまだ統一されていませんでした)のシュツッガルトに、住んでいました。

晩秋の頃だったと思います。3人の息子が通っていたクレアヴァルトにあるヴァルドルフシューレ(シュタイナー学校)で、大きなバザーが催されました。そこでは、生徒たちが長いことかかって創作した作品が売られます。開場いっぱいに並べられている作品はどれもこれも素晴らしい芸術品ばかりです。

親たちは、我が子の作品が誰かに買われてしまっては大変と、始まる前から会場の入り口にたむろして、開場するやいなや、それぞれ目的のコーナーめがけて急ぎ、大切な我が子の作品を買い上げた後は満足顔で、友人たちの作品をゆっくりと手にとったり、眺めたりしながら、買い物を楽しみます。マフラーや手袋、木製の鉛筆置き、籐籠、陶器の花瓶、刺繍入りのテーブルクロス、毛糸で織った袋・・・全て手作りの品物ですから、お値段も結構なものです。でも、短時間のうちに全てが売り切れました。

バザーの売り上げは、学校の修理費とか、校舎の建築費の一部になります。

シュタイナーシューレには、決まった学費の額はありません。親たちが収入に応じて自己申告するのです。お金持ちの人は、自分の子どもが一人しか学校に通っていなくても、よその子どもの学費分を出すことも可能ですし、収入の少ない家庭では、たとえ兄妹が多くても、納められうる額を申し出るのです。この学校では、お金は所有するものではなく、必要なところに必要なだけ流れなければならない、いわば血液のようなもの、というシュタイナーの考え方が息づいていました。

あれから四半世紀、世の中は凄まじい勢いで変化してきました。貧富の格差が救い難くなっている今日、新聞で「いのちを守る」経済という言葉を読みました。

素晴らしい科学技術の進歩の一方で、「いのちを守る」などという、人間にとって当然の事柄を、政治家が声高に発言しなければならない世の中をは、まったく病んでいます。地球というカラダの隅々にまで、新鮮な血液が流れていくようにするには、どうしたらいいのでしょう。

叡がエルゼ・クリンク女史の下でオイリュトミ―を学んでいた26年前、私たちに収入はありませんでした。でも、60マルクでチカシクンの壷を買えた時、本当にカラダが暖まり嬉しかったのを今でも忘れません。

小さな薄桃色の花をつけた啓翁桜は、チカシクンの壷にぴったりです。

もうじき春、あらためて「いのちが守る」ということ深く考えようと思います。

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冬の朝

リウマチ患者にとって、朝は辛いものです。寒い冬の朝は、言うまでもありません。

一晩暖かな布団の中に、身体を静かに寝かせておいたお陰で、目覚めると、身体は外気の寒さで固まったゴムホースのようになっています。そこで、お風呂場までこわばった身体を運んで、温かいお湯につかります。すると、物体のようだった身体が、活きた身体に戻っていきます。頭の中も動き出します。

朝湯の中で、たとえば、セッションハウスの伊藤孝さんから頂いたお年賀状に「昨年末の政府の仕分け作業で、今年の公演活動は厳しくなりそうですが、そんなことに負けていられませんね」というような力強いお言葉があったのを思い出したり・・・

本当にそうだ。ダンサーは何も持たなくても、肉体というダンスの素材を持っている。ダンスの原点を考えるには、今がチャンスだ!などと、ダンサーでもない、おまけにリウマチで変形した手足の持ち主である私が、独り合点したり・・・

「芸術家は制作する作品の素材として、憧れ、希望、想像力、つまり全世界をもっている」とカフカの恋人ミレナが書いていた言葉が浮かんできたり・・・

身体いっぱいに想いを広げながら、私の冬の一日が始まります。

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