大野先生と月見草

確か、梅雨の頃だったと思う。大野先生のお父様がまだご存命でいらしたのだから、かれこれ40年以上前のことだ。

叡とふたりで、丘の中腹にある上星川の先生のお宅を訪ねた。先生は、大きなバケツに入った水を、庭の南側の斜面に何度も勢いよく撒いていた。その豪快な動きは、荒海に向かって網を投げかける漁師そのものだった。

食堂に戻られた先生は、「川で集めた月見草の種をネ、コウシテ蒔くと・・・」と言いながら、デミタスカップにコーヒーを注いで、ザラメを何杯も何杯も入れて、クゥーと飲み「梅雨が明けたらネ、ワタシは直ぐに山に行ってネ、コウシテ窓を開けて、空気を入れ替え、フトンを全ェ〜部、干してサ、生徒たちの夏休みの林間学校までに、用意スルワケデスヨ」と、長い首を私たちの方に突き出して囁いた。

その年の秋、叡は「丘の麓」という作品で、先生とのデュオをお願いした。先生は快諾してくださったが、当時の私たちは、衣装を用意するお金もなく、プロのデザイナーに頼む方策も持っていなかったので、苦肉の策で、洋裁未経験の私が作るはめになった。叡の希望は、もちろん女のドレスで、限りなくエレガントで・・・。果たして私に作れるだろうか?

紫のチゥール地を何枚も重ね、黒のベルベットを裁断して、どうにか形をこしらえて、仮縫いに上星川の稽古場に出向いた。試し着を何度お願いしただろう。でも、先生は少しも嫌な顔をなさらず、額に汗をにじませ、必死になっている私の横で、お母さんが自分のために明日の遠足の着物を縫ってくれているのを、楽しみに待っている子どものように、針を動かす私の指をいつまでも眺めていた。

長い金髪のカツラをかぶり、つけ睫毛と白粉とルージュで顔をつくり、決して上出来とはいえない私の仕立てた衣装を着込んで、風呂の手桶を小脇に抱えて登場すると、先生は、桶の中のドジョウを掴んで、パッパッと舞台の上にばらまき、踊り出した。勢いよくピチピチ跳ねるドジョウの上で、モーツアルトの嬉遊曲にのって、叡とのデュオが始まった。大野先生は、タンホイザーを恋する清らかな乙女エリザベートであり、彼を誘惑する官能的なヴェーヌスであった。

今宵は梅雨の晴れ間、夜空を流れる天の川の河原で、この世のカラダを脱いで、今、宇宙のカラダとなった大野先生は、パチッと花開く月見草と踊っているだろう。

すべて、何かが新しく生まれる瞬間は、エネルギシュであり、なんと魅惑に満ちていることか!

「舞踏」は、「舞踏」という名を付与される以前からあり、いつも新しく生まれ続けている。

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大野一雄先生の死

6月1日18時、ローマのフリオカミロ劇場の二階にあるB&Bの部屋で、インターネットのニュース画面から、大野一雄先生の死を知った。私の中で突然時間がストップする。

先日5月29〜31日の3日間、叡は、ローマ在住の舞踏研究者でありジャーナリストのマリア・ピアと、“ヘリオガバログループ”のダンサーたちと一緒に12年にわたって共に培って来たBUTOHの稽古の集大成として、このグループのための叡の振付作品「ヘリオガバロ」に,自分もダンサーとして加わり、初めて舞台上で彼らとのコラボレーションを実現して、瑞々しい新しい果実が生まれたばかり。

当時大学生だったマリア・ピアは、1986年ローマで大野先生の舞台を観て、強い衝撃を受け、卒業論文に「舞踏家大野一雄」を書いた。以来舞踏のみならず日本文学、日本語、日本文化に深く真摯な情熱を傾け、自身の著作を通して日本の舞踏をイタリアに紹介し、また実際に、ローマで舞踏を志すイタリアのダンサーたちの活動の大きな担い手となった。そして、私たちは、その彼女を通して、“ヘリオガバログループ”(フラビオ、マダレーナ、ピントス、サマンタ、アレキサンドラ・・・)と出会った。

既に目に見えない大きな流れとなった大野一雄先生の舞踏が、国を超えて大洋に向かって広がっていく。

そしてなにより半世紀前、18歳の叡がダンサー大野一雄と出会わなかったら、今のダンサー笠井叡はなかっただろう。

静かに眠るローマの夜空に、今、悲しいほど星々が煌めいている。

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