今日も境域の時代について,考える。

境域の時代とは、それまで二つの世界を分け隔てていた境界線が消滅する。生と死の境界、善と悪の境界、光と闇の境界。

私たちは、感覚活動の時、必ず感覚器官を前提にしている。視覚は目という感覚器官を、聴覚は耳という感覚器官を、嗅覚は鼻いう感覚器官を前提にしている。境域の時代は、この感覚と感覚器官が分離する。もはや視覚は目という感覚器官を必要としない。あるいは、それを前提にしない。或いは、物質器官を乗り越える。なぜならば、死者たちは生き生きと感覚生活を行っているが、生者のように目や耳や鼻という器官を持ってはいない。死者たちの感覚生活は一切の感覚器官から解放されている。確かに人間は、神々の感覚器官である。神々が宇宙を見ようとする時には、人間の体を通して見ようとする。目は人間の目であると同時に、神々の目でもある。その違いは一体どこにあるか。人間は、見るときに目を必要とするが、神々は、見るとき目を必要とはしない。神々の感覚活動はすべて感覚器官から解放されている。これが境域の時代の感覚生活であろう。こうして、「身振り」もカラダから、分離していくのだ。

comment(0 )

ページのトップへ戻る

名古屋において,「蝶たちのコロナ」のオイリュトミー公演を行いました。これは記念すべき公演でした。

なぜなら、これまで、オイリュトミーの公演は関係者や人智学の人たちが主な観客でしたが、今回は、多くの一般市民の方が、この会に参加してくださいました。私は舞台に立った瞬間から、この違いを感じ、この公演は人間の原点に立たなければ、成り立たない公演である、と直感したのです。

2年前の、あの大津波は確かに、この世とあの世を、天界とこの世、幽界と顕界をつなぐ大きな出来事でした。けれども、この境域の時代は、あの津波によって開かれたのではありません。もうすでに以前から境域の時代は始まっていたのです。そして、この境域の時代においては、もはや本音と建前を決して分けることはできないのです。

境域の向こう側に持っていくことのできる、物質的なるものは「肉体」だけです。

お金も株券も土地も家も服も何も、あの境域の向こうに、持っていくことはできないのです。物質的なるもので、境域の向こうに持っていくことのできるは、このカラダだけです。12月に境域の時代のためのワークショップを、1週間行ないます。それは唯、この肉体を境域の向こう側に持っていくための練習です。

comment(0 )

ページのトップへ戻る

時代は明らかに、境域を超えてしまっていると、私は確信しています。

かつて人間が天孫降臨し、神々の世界から地上に降りてきたときに、一度通過したあの境域を、今私たちは、再び渡ろうとしています。しかしそれは、天孫降臨とは逆の、私たちカラダを持っている人間が、神々の世界、死者たちの住む世界、自然霊の住む世界に向けて、この境域を通って渡っていくのです。

最初の境域は、神々の力で私たちは渡ったのです。けれどもこの第2の境域の通過においては、もはや神々はその力を与えてくれません。人間の認識する力と意志の力だけでこの境域を渡り、死者たちの世界へ赴かなければならないのです。このことを正しく認識しなければ、東日本大震災で亡くなった多くの方々の魂が、地上の人間と正しく結びつくことができなくなります。境域の時代とは生者と死者を分け隔てないということです。

そしてその時には、憲法が死者達に対しても有効でなければなりません。もし生者たちだけのための憲法であるならば、それは、一つの戯画であるに過ぎません。地上の、生きている人間たちの都合によって、作られた憲法であるにすぎません。

12月の2日から7日までの6日間、中野テルプシコールで、この境域の時代のためのダンス・ワークショップを行います。この時代は、ボディトレーニングによって、カラダを創る時代ではなくなりました。言葉によってカラダを創る時代です。なぜならば、言葉というものは人間に「最も微細な身体感覚」を与えてくれます。この「微細な身体感覚に目覚めること」が、新しいカラダを作る出発になるのです。今回はこの言葉によって生じる微細な身体感覚を通して、ダンスの新しい即興技法を、皆で体験したいと思っています。

今週の金曜日、名古屋の愛知芸術文化センターの小ホールで、再び「蝶たちのコロナ」の公演を行います。どうか、この公演に目に見えない力を注いでください。

comment(0 )

ページのトップへ戻る

笠井叡ブログ

CATEGORIES

  • カテゴリーなし