自爆テロは最終自己表現か 8

バガヴァット・ギ―タ―

バガヴァッド・ギ―タ―は、紀元前六百年から四百年くらいの間にかけて描かれたと言われている、古代最大の叙事詩マハーバーラタの中の十七章からなる「神の歌」であり、筑摩書房の世界古典文学全集において、辻直四郎の編で出版されました。ここに引用する文章はすべてこの筑摩書房版からです。
古代インドにおいて、バタラ族の王位継承問題に端を発して、戦争が繰り広げられることになり、敵味方にわかれるものの、王位継承問題のために、互いに親兄弟親戚等の、血を分けたもの同士の壮絶きわめる戦争です。

「神の歌」はこの血族同士の戦いを前にして、アルジェナは武士でありながら、戦意を失い、もはや戦うことを断念しようとするのですが、それに対して、ヴィシュヌ神の化身であるクリシュナは、「汝は武士の本分を忘れることなく、たとえ血族であっても勇気を奮って戦え、戦い抜け、そして行為することによってのみ、行為を超えよ」という、神と人間の問答形式で語られています。そこに描かれている内容は、古今東西の哲学的思弁を一挙に超える、神的想像力と叡智に貫かれています。短い問答形式でありながら、神々の創造の秘密、神々の内部から立ち現れてくる能動的な創造力と、それらを取り囲んでいる仮象の世界との関わり、目に見える世界の中で立ち現れてくる、様々な妄想や論理や疑いを、一挙に超える道徳的想像力に満ち満ちています。
ここでは神が人間にコトバの鞭を打ちながら、「戦え・ば殺せ・立て・負けるな・戦争の中で汝は汝を乗り越えよ」と言うのです。まず、アルジェナは武器を取っての戦争を前にしながら、次のようにクリシュナに言います。

「戦おうとして目近くに立つ  この同族を見ては、クリシュナ
わしの手足は力を失い、  口もまた涸れはててしまう。
・・・・・・わしは立っていることができない。  わしの心はよろめくようだ。
そしてわしにはめでたくない  兆しが見える、クリシュナよ。
戦さにおいて同族を  殺して吉祥は予見されない。
わしは勝利を望まない、クリシュナ・・・・・・・・
彼らが(わしを)殺すとも、クリシュナ  彼らをわしは殺したくない。」

ガンジーの「無抵抗主義」にも通じるような、人間的なアルジェナの言葉に対して、クリシュナは、次のように言う。

「難事に際してこの弱気は、  どこからあなたに近づいてきたのか。・・・女々しくなってはいけない、アルジェナ  それはあなたにふさわしくない・・・卑小な心の弱弱いしさを  うち捨て去って、立たれよ  アルジェナ」

こうして二人の問答は始まるのですが、この「神の歌」は歴史的な戦争においてなされた対話ではなく、神々が宇宙創造を始めるた時の「仮象」「悪の可能態」と神の能動的な創造力との戦い と見なければなりません。それは、バガヴァッド・ギ―タ―全体を貫いている神々の 「智」です。この人間的な、「戦争をしたくない」、という心の働きと、「戦い抜け」という神の言葉は、人間のほうが善であり、神々の方が悪なのです。神は徹底的には「悪」を装っているのです。バガヴァッド・ギ―タ―における神は、戦争に関して「悪」の側に立って、人間に人間であることの本分を気づかせようとするのです。クリシュナはさらに続けて次のように言います。

汝は嘆くの要のないものについて嘆いた。  しかも思慮あるような言葉を語る。
死者のことをも生者のことをも、  見識ある人々は嘆きはしない。
しかし、実には、予はかって  存在しなかったことはない。汝も、ここにいる王たちも。
また、我々はみな、これから後  存在しなくなることもない。

クリシュナが始めに語るのは、人間には生も死も始めから存在しない、という一元世界であり、これをバガヴァッド・ギ―タ―では「神我」(プルシャ)と呼んでいます。「神我」というのは、一切の物質的なるもの、感覚的なものから離れた、すべてのものを「観る」だけの働きです。この働きの中には、すでに生も死も存在しないけれども、人間の本質はこの「観照者」の中にあると語ります。さらに、

こ「の個我」は生ずることなく、  あるいはいつか死ぬこともない。一旦存在した後に、  また存在しなくなることもない。
不生、恒存、永遠の、  この太古より存するものは、
たとえ身体が毀損されても、  毀損されはしないのである。不生、不滅のこ「の個我」を  滅びず恒存すると知る人、その人は、アルジェナ  いかにして、  誰に殺さしめ、  誰を殺すか。

このクリシュナが語る「個我」とは、宇宙自我のことです。人間の本質はこの宇宙自我と同じであり、一旦存在するならば、決して消滅することはなく、殺されたり殺したりするという現象は、「限りなくそのように見える」仮象なのだ、アルジェナ、それに気づけ、というのです。クリシュナがここで語るのは、人間よ、その仮象を超えるならば、戦争しつつ戦争を、行為しつつその行為を超える、というのです。クリシュナがアルジェナに語るのは、お前はこの宇宙の「絶対矛盾」を引き受けなければならない、お前が弱気で単なる善の中に引きこもるならば、もっと大いなる悪にお前は引き渡されるであろう、というのです。「万物においては、初めは顕現せず、人間が知っているのは、その中間だけであり、そして終わりもまた、顕現しない、神はその始まりと終わりを知っている。人間はその中間だけしか知らないのだ。けれども、地上において真に生きようとする時には、この始めと終わりの顕現してないところに、至ろうとしなければならない、と言うのです。

それ故に、一切万物について、汝は嘆くべきではない。
さらに、自己の義務を考慮しても、汝ばおののくべきではない。
武士(クッシャトリア)にとっては、義務付けられた  戦争に勝るものは無いからである。

クリシュナが神そのものとして語り始めるのは、十二章以降ですが、すでにここにおいて、述べられている「正統なる戦争」は、現代的な言い方をするならば、国際法によって定められるのではなく、神的な根拠をがあると述べているのです。
この神的な根拠とは、宇宙創造の「根本的な矛盾」の中に、根を下ろしています。悪が存在しなければ宇宙創造、歴史は動かないという矛盾律が前提になっているのです。そしてこの矛盾律を引き受けるのは、 神の側ではなく、人間の側なのです。人間は仮象を実相と捉えており、
それらを乗り越えるものとして、バガヴァッド・ギ―タ―は、ここからサーンキャ哲学の内容に入っていきます。するとバガヴァッド・ギ―タ―全体は、サーンキャ哲学を描写するために描かれた「神の歌」であることがわかります。

ヴェーダは三成分(グナ)から、できているものも対象とする。三成分(グナ)できているものを離れよ  アルジェナ

グナとは仮象を実象に変える三つの成分のことであり、サーンキャ哲学ではそれを純質(サットヴァ)・激質(ラジャス)・翳質(タマス)といいます。クリシュナはこの三つの成分について第十四章で、次のように語るのです。

純質(サトヴァ)は無垢であるから、  照明し、患いのないものである。幸福への執着によって、また、アルジェナ  知識への執着によって束縛する。  
激質(ラジャス)は、欲望を本質とし、 渇愛と執着から生じると知れ。
それは行為への執着によって、アルジェナよ、  個我を束縛する
しかし  翳質(タマス)は、無知から生じ、  一切の個我をまどわすものと知れ。
不注意、怠惰、睡眠によって、  それは束縛する。  アルジェナよ。
純質は幸福に、激質は行為に、執着せしめる、アルジェナよ。
他方、翳質タマス)は、知識を蔽って、不注意に、実に、執着せしめる。

純質(サトヴァ)は、欲望からも記憶からも自由であり、あらゆる行動の根底に認識する力が働いています。激質(ラジャス)は強い共感と強い反感が存在し、認識を破壊するほどの強さがあります。翳質(タマス)は無知と感覚の眠りが強く働いています。アルジェナはこの身体から生じた三成分(グナ)が消滅するとき、個我は出生、死亡、老年、苦悩から解放されて、不死に到達するのだと語るのです。この純質・激質・翳質は人間の魂をひたすら純化することによって、仮象から実体へ移行しようとするのですが、同時に、その正反対の方向から、殺人を肯定する神々の声が宇宙に響き渡るのです。

comment(0 )

ページのトップへ戻る

自爆テロは最終自己表現か 7

マニ教は紀元後三世紀頃ササン朝ペルシャに生じ、ユダヤ教やキリスト教またグノーシス派等の世界観も結びついた二元論的宗教です。それは光と闇、善と悪、霊と物質等の二つの原理によって世界が支えられており、そこでは善と同様に悪そのものに、一つの自律した存在が、与えられています。
キリスト教の玄義である父と子と聖霊の三位一体において、「父」は、古代的な律法の世界との結びつきを、「子」なるイエス・キリストにおいては、信仰の世界と結びつき、「聖霊」はキリストが昇天した後に、世界に与えられたキリストに替わる救済の力を表していますが、マニは自身をこのキリスト亡き後のパラクレートと考えていたのです。このパラクレート存在とは、全く新しい「魂」の力を人類史の中にもたらすという意味を持っていますが、その存在のことをマニは、「寡婦の子」と呼んだのです。すなわち、自分にはもはや父はいない「やもめの子」であるという意味です。ここで言う「父」とは宇宙を導く霊の働きのことですが、パラクレートとしての「寡婦の子」においては、もはや宇宙を導く霊は直接、人間に働くのではなく、魂の中に自分自身の自我と結びついた救済の力が生じるという意味です。この救済の力としての自我は「自律した悪」に向かうことができます。それは悪を自身の内から、消去するのではなく悪と完全に対峙し続ける事によってです。マニ教が語る伝説とは、そのように光の国と闇の国が存在し、対峙しあっているのですが、光の国は満ち足りていて、そこには善だけが存在しています。この光の国に始めに戦争しかけたのは、闇の国ですが、闇の国は光の国を征服することができず、その結果、闇の国は光の国によって罰を受けることになったのです。その罰とは宇宙から闇の国を葬り去ることではなく、光の国はその光の一部分を闇の国に投げ込み、闇が光の中を生きるという無限の試練が与えられたです。この闇にまじった光の中から人類が生じました。ですから、ここで人類が担った課題とは、悪と完全に融合することによって悪を克服するという試練なのです。悪は解放されなければならないのですが、それは闇の国が自身を克服することによってです。そしてこのことがマニ教においては宇宙創造と人間の歴史の無限の過程なのです。
私たちは外的対象を一つの実体として眺め続け、それによって、一切の人生を形成していますが、その限りにおいて、創造は決して始まらないのです。外界のすべてが仮象であって、その仮象に向かって、常に内なる能動的な力が働き続けることによって、そこに宇宙創造の無限の熱が現れるのですが、この無限の「悪の可能態」としての仮象の世界が、悪の事実態にまでもたらされるというのが、宇宙創造の現実です。それに意味において、マニ教の伝説は、過去の伝説ではなくて、現在進行形なのです。

あの人間は限りなく犯人のように思えるが、犯人ではない、、、
これは限りなく生きているように見えるが、死んでいる、、、
神のように美しいが、神ではない、、、

悪の働きの根源とは、この仮象の世界を実体にすりかえる力です。私たちの人生、歴史、文化、自然界の中には限りなくこの仮象が実体として存在し続け、その事を基盤にしてしばし私たちは生きる目的や根拠を作り出しているのです。そして、進んでこの無限に「そのように思える」仮象の中にとどまろうとするのです。そしてこの無限の積み重ねの結果、「悪の可能態」が完全な「悪の事実態」に移行していくことによって、神の創造行為は一つの極へ向かって無限に高められていくのです。これは神々が人間に与えた最高の挑戦状のようなものかもしれません。神々が宇宙創造の始まりに自身を取り囲んでいる「悪の可能態」としての「仮象の世界」に対峙し続けることによって、「創造の熱」を生み出したように、現在、人類が新しい「公転」を始めようとするならば、マニ教的な天地開闢の時間を今、この日常生活の中に持ち込まなければならないのです。もし世界が完全に一元的であるならば、人間は、いかなる悪をも行いうる可能性を有しません。どんな悪も善にしかならないのです。反対に、宇宙が完全に二元的で善悪が対峙し続ける限りにおいて、人間は悪を選ぼうが善を選ぼうが、それはどちらでも同じです。完璧な二元論に絶対的な価値を決定することなどできないからです。
けれどもマニ教が一元論であるか、二元論であるか、三元論であるが、それは、どうでもいのです。人間の「能動的な働き」とは、思想の一切を宇宙的事実から生み出すのではなくて、自分自身の内部から生み出すことができるからです。人間は二元論を一元論にする力があります。一元論であっても反対に二元論として、人間を組み立てることができます。もはや、人間の思想は外界に依存する必要は全くないのです。自身の内部から、何を生み出すかだけです。その意味において、たとえマニ教が完全な二元論を展開しているとしても、人間がその善悪二元論をカラダにどう引き受けるかだけが問題なのです。それは全能なる神が「可能態としての悪」に向かいつつ、その能動性が外界に全く依存していないのと同じです。例えばルドルフ・シュタイナーはマニ教のこの二元論を、次のようにとらえています。もし宇宙が善の一元世界であるならば、破壊も悪も破滅も存在せず、永遠の光だけです。もし人間がその光の王国の中に、そのまま創造されたとするならば、人間に、神が行ったのと同等の言葉の力、宇宙創造力を移転させることなど決してできないのです。そこで神は何を行ったか・・・・・・・・・神は永遠の悪を「演じ続けた」のです。神は永遠に「悪の仮面」をつけ続けたのです。神は悪を演じ続けることによって、人間に宇宙創造の力を伝達した、というのです。「悪の劇場宇宙」・・・これを仕組んだのが神々であるというのです。もし、人間がこの悪の演劇構造に目覚めなかったとするなら、宇宙はそのまま奈落に落ちてゆくでしょう。悪はもともと実体としては存在し得ない「虚」のものです。善は外側に何者も依存しない能動性に満ちた存在です。すべてのものを「内部から」創造するのです。そして悪が善と同じく「能動性」を持ち得るとするならば、それは、「可能態としての悪」なのです。「演じられた悪」なのです。善はそれ自体では停止しています。宇宙の創造においては、「演じられた悪」が先に活動を始めることによってのみ、光は活動することができるからです。光だけでは活動できないのです。その虚構を実の悪に変えてしまってのは、人間です。ですから、マニ教の善悪二元論を、人間のカラダを通して描こうとするならば、「全能」と「演じられた悪」の二つなのです。そして、この事を古代インドにおいて、壮大な叙事詩として描いているのが、「バガヴァッド・ギ―タ―」です。

comment(0 )

ページのトップへ戻る

自爆テロは最終自己表現か 6

けれども、外世界が「虚」の存在であるとしても、家が火事になれば住むところありませんし、怪我をすれば痛いし、自然災害が生じるならば、それは私たちの社会や人生全体にとって膨大な影響力をもたらします。ですから、外的世界は「虚存在」だ、などとは言ってられないのです。人生にとってそんなことは、どうでもいいのです。私たちがこの世に生まれ、生きていくということは、紛れもなく外的世界の中で生じるのです。すべてのリアリティは、この外的世界から私達に与えられるのです。衣食住のすべてのリアリティは、外から私達もたらされるものです。すでに述べたように、もう一方に内的イマジネーションを通しても、リアリティを能動的に生み出すことはできます。今日、人はパソコン内部のバーチャル空間の中で、第二の人生を作ることができ、、そこでも外界と同じような意識のリアリティを作り出すことができます。同じように、私たちは自分の体の内部で イマジネーション だけの内的な、第三番目の世界を有しています。そして今日多くの人々は、むしろこのコンピューター内部のバーチャル世界よりも、自分の内部の イマジネーション世界の方に、より強いリアリティ思ってることも事実です。
ここで次のような問いを立ててみたいのです。
外的世界は、つき詰めならば、虚の世界かもしれないけども、リアリティが外界から来るものによって常に与えられる場合と、同じように外界の中に生きるわけですが、常にその時にそこで生じることが、虚の出来事であるということを意識し続けているている場合、そこにどのような違いがあるのでしょうか。両者において、経験する内容を同じなのですが、一方は「虚」であることを問題視しない場合と、他方では、
常に「虚」であること意識続ける場合です。このことは理屈で考えるよりも、実際に十分間でも、外界が「虚」であることを意識し続ける時に、自分の体の中で何が生じるかを観察してみればいいのです。けれどもそれを始めるには、大きな障害があります。冒頭で述べまたように、「人が歩いているのを見る」ということは、その人が自分のカラダの中を歩いているのではなく、それを表象としてのみ受け取っているにもかかわらず、私たちは、海外の出来事を「虚」とは考えられず、自分の表象と同じものが外界に「在る」に違いないと確信しているからです。ですから「虚」であることを前提にするのではなく、外的な一つの対象が何であるかを、十分間とことん問い続けることをしてみるとき、一体何が生じるでしょうか。その時に、次のことを行う必要があります。そこに一切の前堤となるもの、社会的常識、記憶、思い込み、それが自分の体の外にあるのか、内であるかなどという判断を一切除外して視るみる、という十分間です。とても「虚」の存在には至らないでしょうけれども、一切の「前提」を外して見るときに、そこで何がカラダの中に生じるでしょうか。それは熱です。血液の中を流れる熱です。なぜ、その時、熱が生じるのでしょうか。それは固まった記憶が溶け始めるからです。例えば、人間の体には様々な臓器がありますが、肺は始めから肺として形成されたのではなくて、魚類が両生類をへて、陸上の脊椎動物に変わっていくときに形成されたものです。ですから、人間の肺は、人間の進化の過程をそこに封印した一個の器官です。人間の体のすべての器官、心臓や肺や眼球等の物質的形態の中には、それが形成されるに至るまでのすべてが、エネルギーとして、込められているのです。けれども、それが一つの形態をとってしまった時に、そのエネルギーは硬化した器官に変化してしまいます。同じように、私たちが有している記憶や社会常識や思い込みは、すべて記憶を形成するエネルギーが硬化したものです。それはかつて無限のエネルギー生命力であったものが記憶としての形態化したものです。通常の日常生活において、内部の表象がそのまま対象物として外に実現されていると考えるとき、そのような記憶のエネルギー化は決して生じません。なぜなら、内と外において、完全に平衡が保たれ、外的対象と内的表象が硬く結びついているからです。けれども、外的対象物から一切の記憶思い込み前堤を外していくうちに、外的対象物そのものがそれとともに、限りなく変容するのです。そしてそれはいつしか外的対象物から「虚」の存在にまで変化していきます。その「虚」の存在はその瞬間に、人間の元から有している能動的リアリティ、イマジネーションを通してリアリティを内的に形成する力と融合するのです。そしてこの瞬間に生じていることは、全能なる神が宇宙創造を始める瞬間に、立ち会うことなのです。

この瞬間は「可能態としての悪」が神々の宇宙創造と関わる最重要な瞬間なのです。そして、そのことは、人間の日常生活における対象と表象との関わりを、嘘偽りなく見つめ続けることによって、獲得することができる、人間にとっての最高の認識瞬間なのです。この瞬間をもう一歩深めて、叙述してみたいともいます。
人間は外的世界が存在しなくても、神々や死者たちがそうであるように、自分自身の内部から「能動的に存在のリアリティ」を生み出すことができます。この存在の能動性は人間の本質と深く結びついているものです。けれども、この能動性がある一つの「具体的なイマジネーション」を形成するためには、始めに、実体としてのイマジネーションではなくて、その虚体がなければなりません。始めに存在の能動性をイマジネーションにおいて形成するのは、実体ではなく、その「虚」の存在なのです。実体の周囲を「虚」の存在が取り囲み始めることによって、イマジネーションは内部から能動的に立ち現れてきます。日常生活において外側の対象と内側の表彰が完全に結びついている時には、表象は常に受動的に外側から人間に与えられます。けれども、このことが生じるのは、表象と同じものが外界に実体して存在するという人間の習慣的な感性での中でのみ、現れてくるものです。そして、対象についてのすべての思い込み、前堤、記憶を消去することによって、対象そのものもの本来の姿である「虚体」の存在が出現するに従って、イマジネーションは能動的に存在の内部から立ち上がり、そして「虚」の存在と一体となる
です。そしてこのことは神々な宇宙を創造する最初の瞬間の再現なのです。

全能なる神は、宇宙創造以前において、すでにすべての存在を能動的に生み出す力を内部に持っています。けれども、宇宙創造という、一つの運動を始めるということは、全能性の中に存在する「悪へのか可能態」が動き始めるからなのです。完璧な全能であるならば、もはや創造することすらできません。創造するということは、すでに「全能ではないもの」が動き始めることです。全能であることそのものの中に存在する、「非全能への可能態」、すなわち「悪への可能態」が動き始めることによってのみ、神々は創造行為を行うことができるのです。初めに動き始めたのは、「悪の可能態」です。
神々による宇宙創造が始まる以前に、宇宙には、「虚偽の 霊」 と「真実の霊」の二つが存在していました。「真実の霊」はひたすら能動的で創造的力であり、何物にも欠けることなく、自足して宇宙に存在する力です。それに対して「虚偽の霊」とは、空間の中に一本の線を描いて一つの領域を「指示する力」「暗示する力」です。「悪の可能態」が始めに活動を始めるのは、この「虚偽の霊」としてです。宇宙とは、決して何者によっても分断することのできない力に満たされています。ですから、その真実に満たされた空間の中に、分断された空間を生み出すことは本来できないのです。けれども、虚偽の霊 は、宇宙空間の中に、あたかも地球それ自体には緯度経度という線は、存在しないにもかかわらず、世界地図の中にそれを描くような働きをするのです。その線が円を描いたとしますと、本来宇宙には、内も外もないのですが、あたかもその円によって宇宙に内と外が生まれるかのように見える、そういう働きをするのです。この虚偽の霊 は、真実の霊よりもはるかに高次の霊です。なぜなら、このことを「鏡」の譬えで考えてますと、次のように言えます。鏡は本来それを映し出す実体が先にあって、そのあとにその鏡像が生まれるのです。けれども、この高次の虚偽の 霊は逆なのです。初めに鏡像が存在し、その鏡像の力によって、実体が働き始めるのです。全能の神はこの虚偽の霊によって造られたのではありません。けれども、この虚偽の霊が働かないと、全能の神は一切創造を行うことがなく、ただ自足して不動な状態にあるのです。この虚偽の 霊は、「映し出された鏡像」なのではなく、あたかも「自律した鏡像」であるかのように働き、それによって全能なる力が鼓舞されるのです。
この悪の可能態は悪の事実態として働くのではなく、あたかも「悪の実体であるかのごとく」働きます。それはちょうど私たちの日常生活において、外的対象があたかも「実体」としてそこにあるかのごとく、存在するのと全く同じなのです。私たちは外的対象が実体として存在していると習慣的に感じていることを、「悪の可能態」などとは考えません。けれども、外的対象物を実体と考えること自体、すでに人間は悪の可能態の中に没入させられているのです。私たちは日常生活全体が悪の可能態の中にすべて吸収されているとは決して考えません。しかし外界は、「無限に実体のように見える」という仮象の世界なのです。「虚」でありながら、限りなく「実」として存在しているのです。その時、全能なる神は何を行ったのでしょうか。神は何にも依存することのない能動的な創造力と「虚の世界」を結合したのです。どのように、、、。どうしても実体としか見えない仮象に、対峙し続けたのです。一瞬も仮称の世界、虚の世界の中に、神々は吞み込まれなかったのです。虚であることを見続けたのです、感じ続けたのです。その虚の力を、創造の中に永遠に取り組み込み続けたのです。もし、全能の神が悪の可能態である虚を、実と捉えた瞬間に、宇宙は崩壊するでしょう。神の能動的な創造力と虚の世界が結合した時、永劫の熱が生まれたのです。宇宙は熱宇宙となったのです。そしてこの熱が人間の血液の熱、体温の大元を作ったのです。人間がこの結合の中から、出現したのです。

comment(0 )

ページのトップへ戻る

自爆テロは最終自己表現か 5

      鏡像

あなたが今一つの空間の中にいて、眼の前に大勢の人の歩いている姿を見ています。あなたがそれを知覚することができるのは、 眼 という感覚器官を通してです。当たり前のことですが、その大勢の歩いてる人が「生身のまま」で、あなたの体の中を通過することによって、あなたはその大勢の人の姿を、リアルなものとしてとらえているのではありません。あなたが受け取っているのは 、眼という感覚器官を通して、その姿を内的に知覚しているだけです。けれども、あなたが知覚しているものとは別に、具体的に生身の大勢の人間が眼という感覚器官の向こうを歩いている、ということも事実です。こうして感覚器官で知覚するということは、人間を内部と外部に完全に分断し、分裂させてしまいます。実際のところ、私たちは目の向こう側を歩いている、大勢の人たちの「存在そのもの」を、じかに確認しているわけではないのです。たとえそれを確認しようとして、それらの人々を手で触れてみたところで、それは、触角という感覚器官が働くだけであって、それらの人々そのものの存在では決してありません。それらの人々から何がしかが香ってきたとしましても、それは、その存在そのものではなく、嗅覚という感覚器官が働いているに過ぎません。人間は決して「外界それ自体」を、一度も見たことも聞いた事も触れたこともないのです。外界は常に感覚の向こう側に、あたかも永遠の謎かであるかのように、たゆだっているに過ぎません。生まれつき完全な盲目の人が存在するように、もし生まれつき完全に触角が働がない人間がいたとするなら、たとえ、その人は視覚や嗅覚が健全に働いているとしても、決して内界と外界を分けることはできません。目の前にある樹と自分の手を区別する事はできないのです。感覚が働くということは、同時そこに「感覚についての意識」が働きます。ですから、私たちは眼の前の「人の姿」を見ているのか、眼の前で「人の姿という意識」を見ているのか、判別つかないのです。「床」を見ているのか「床という意識」を見ているのか、「星空」を見ているのか、「星空という意識」を見てるのか、わからないのです。にもかかわらず、私たちは感覚を通して、そこにリアルな「床」や「星々」や「人間」という意識を有することができるのです。このようなリアルな意識は具体的な「床」や「星々」や「人間」に基づくものではなく、それらがバーチャル映像であろうと、さして変わりません。非常に精密な映像を通しても、そのようなリアルな意識を生み出すことができるわけですから。さらに、そのようなリアルな意識は、具体的な出来事やバーチャル映像に全く依存しなくても、自律的にカラダの中で生み出すことができます。つまり イマジネーション を通しても、そのようなリアルな意識は体の中に創造されます。このように、リアルな意識は外的な、具体的出来事をとうしても、反対にヴァーチャルなものを通しても、或いは、イマジネーションを通しても、形成されるわけです。そして私たち人間生活をしている時に、この三つの事柄をそれほど明瞭に分離しているわけではありません。
どうかこの三つの出来事を、一切の妥協を排して、徹底的に観察してください。そうすれば、そこに神々の創造の大きな秘密を解き明かすに違いありません。第1の場合は、物質と感覚器官との係りにおいて生じます。第2の場合は、感覚器官と表象を通して生じます。そして第3の場合にはイマジネーションとそれを受け取る自我との間において生じます。そして、そこにおいて共通しているのは、「リアルな意識」ということです。第1の場合のリアルな意識は自分で生み出したものではなくて、常に外界から「受動的」に与えられたものとして生じます。第2の場合には、感覚が表象と一体となって現れてきます。そして第3の場合には、すべて自分自身の内部でイマジネーションを形成することによって、自分の内部そのものから「能動的」に現れてきます。第1の場合には所与のものとして、第2の場合には、自然に生み出されるものとして、第3の場合には、能動的に形成されるものとして生じるのです。この三つのものの結びつきを理解する事を通して、神々の創造行為の核心に触れることができるのです。とりわけ、全能なる神が存在することによって生じる、「可能態としての悪」と、その悪を通して神々がいかに宇宙創造を行い、人間形成にまで至ったのかということが理解されるのです。人間の何気ない日常生活の中の中において、神々の創造行為と同等のものが、常に生じているのです。

これらのことは人間においても、一般動物とりわけ脊椎動物においても生じますが、その違いはそこに自我の働きが介入してるか否かということです。自我はその働きにおいて、非常に微妙であり、多様性に富んでいます。自我は自我そのものに働きかけることによって、「無我」にもなります。また、自我は無我と共存することができ、無我はしばしば自我を非常に強めることができ、反対に、自我そのものが、無我のありようを無限に変容させることができるのです。自我は欲望と結びつくことによって、すぐに利己主義的にもなりますし、その欲望が自分自身のためではなくて他者のために働こうとすると自我は利他主義的にもなります。ライオンや犬のような個々の動物そのものの中には、人間と同等の自我は存在しませんが、けれども、それらの動物は、同じ種の存在として、共通の群れの魂としての群魂を有しています。この群魂を通して通して、一つの種の動物においては、一つの共通の自我が働いているのです。このことは人間においても、共通です。個々の人間はそれぞれ固有の自我を持っていますが、同時に動物が一つの群魂を持っているように、群魂としての全体自我も有しています。違うのは動物においては、群魂だけが働くのに対して、人間は個体自我と群魂を共有することができます。
ここで再び、外界と内界が外的対象と表象に、感覚器官を通して分断され、分離している第一の意識について考えてみます。勿論、人間は、それを決して分離した状態とは考えておらず、ごく自然に表象と外的対象は、一致しているという前提のもとに生活してるわけです。けれども、この分離を明瞭に意識してしまった人間にとっては、ある瞬間から外的世界に生きること生きること全体が、すべて内界の出来事として、引き受けるべきであるという、大きな選択の前に立たされます。そこでは社会も大自然か宇宙もすべて自己の内部世界です。そして人間は決してこの感覚の向こう側の、いわゆる「物自体」をリアルに捕まえようとすると、一つの虚構の世界の中に入り込んでしまいます。その時、その外的対象は、そこに存在しているのではなく、「限りなく存在しているかのように思える虚存在」の姿を現し始めます。汽車が走る二本のメールが彼方のところであたかも、一点に重なっているように思える時に、その点を掴もうと思って走り始める人間のような感覚です。外的対象はそれを掴もうとすれば常に遠のいてゆく存在です。それは青空のブルー色を掴もうとするのと、同じです。あの青空のブルーはどこにも存在していません。ただ、ブルーが実体として空に存在しているかのように思えるのです。人間を取り巻く外界は、それを掴もうとするならば、常にそのような虚存在なのです。

comment(0 )

ページのトップへ戻る

自爆テロは最終自己表現か 4

神々は単に、自己のすべてを人間の中に、歴史の中に、大自然の中に流出することによって、創造行為を行ったのではありません。神は自己の中に、「悪の可能態」を無限に拡大していくことによってのみ、創造行為を実現することができたのです。そこには、悪に対して、神々の最も意識的で、意図的で、意志的な働きが存在しています。天地創造の結果、やむを得ず、悪が生じてしまったのではないのです。まして、悪というものは、神々の中には存在しなかった、悪はただ物質の世界、霊界ではなく、感覚的な世界に人間が存在することによってのみ、現れてきたのだ、というのは、根本的な間違いです。人間が物質的な感性、物質的な満足を追い求める結果、悪が生じたのではないのです。神々は純粋無垢な光だけの存在である、神々は一切の汚れがなく、無垢で悪の可能態に触れた存在ではなく、それは完璧な全能なる存在として、一切の悪を消滅させる力である、その神々の光が地上に射してきたとき、人間が立ったその大地に黒々とその影が生じた、悪とはそのように人間が物質世界に立つことによってのみ、生じたのだと、と考えるとき、悪の根源にまでには決して至りません。悪は地上で生まれたのではなく、霊界において誕生したのです。そもそも、神々の根本的な創造行為そのものは、悪の無限の可能態を事実態に変えることによってのみ、生じたのです。神は自己の全能の中に、眠り続ける存在ではありません。神は全能であることそのものが、すでに「存在が不在を可能態として含む」ように、全能が「非全能の可能態であること」すなわち、悪の可能態を有していることを、自己の全能性以上に知り尽くした存在です。
ですから私たちは、悪の根源に至ろうとするならば、一切の肉体的な存在と物質的な存在を消去させ、感覚を超えた世界に悪そのもの実態をイメージすることができなければならないのです。悪が物質世界から自立した存在であるということを知らなければならないのです。このことは同時に、人間そのものの全体性にいえることです。人間は、決して唯物的な肉体そのものがすべてなのではなく、この肉体の中には、神々がその中に封印した、すべてのものが存在しています。そこでは霊的なるもの、魂的なるも、四大元素霊や物質世界そのものを生み出すことのできる神霊的力が体の中に封印されているのです。宇宙に存在するすべてのもの、庭園、樹の幹や枝枝が、物質的なるものと一体となって肉体を構成しています。ですから、悪が一切の肉体的なものから離れた、超感覚的な世界において自立した存在であるということを認識することは、自分自身の存在そのものが肉体から自由な、霊的、魂的に自立した存在であることを確信できなければならないのです。
神の全能は宇宙に存在するすべての物の内部にあって、一なる存在であること、大宇宙を一つの球形に例えるならば、その一なる球形が全宇宙と融合していることです。一が全なのです。そして神の有する「悪への可能態」とは、この「一が全であること」」の中に存在しています。なぜなら、そこには「一が全でない可能態」生じるからです。この全体から離れた一が利己主義を生じるのです。すべての悪は利己主義から生じます。人との間の、ささいな争いからに、世界大戦に至るまで、すべての破壊的な悪は、利己主義から生じます。そして悪を克服できるのは利己主義を克服することに以外ありません。そして、利己主義と利他主義が一切の矛盾を越えて、完璧に融合した存在が神なのです。神以外にこの利己主義と利他主義を宇宙的に完璧に融合した存在は、ありません。どんな人間といえども、この二つは完全に融合することができないのです。なぜなら、利己主義には、無限の悪を生み出すす力が存在するからです。人間にはこの無限の悪を克服する力はありません。ただ、その克服に向けて、無限に努力し続ける存在でしかないのです。ここで重要なのは、神は利他主義の存在ではないということです。そうではなくて利己主義と利他主義を矛盾なく融合させる無限の力をもった存在であるということです。利己主義なしに、神たり得ることは決してありません。なぜならば利己主義なしには、悪を生み出すことも悪を宇宙創造の力に変えることも決してできないからです。

comment(0 )

ページのトップへ戻る

自爆テロは最終自己表現か 3

もし,神々この完全な光輝、完全な共感、完全な自由、完全な純粋性、破壊することもできないダイヤモンドよりも硬い砦を守り続けたとするなら、罪性は決して生じることなく、神はただ神であり続けたに違いありません。けれども,そこでは決して宇宙創造は行われません。宇宙創造を行うということは、この完璧な神性の中に罪性を担うことであり、更にその罪性を被造物の中に流し込んで封印することなのです。けれども、罪性、悪そのものは一体どのように生じたのでしょうか。このことを考える上で二つの概念を考えなければなりません。それは、「可能態」と「事実態」という概念です。「悪が生じる」ということは、悪が一つの事実として宇宙の中に「働く」ということです。けれども、「可能態」というのは、そこに悪そのものが生じているのではなく、無限に「生じ得る」可能性が存在するという意味です。この可能態としての悪はすでに宇宙を創造する以前の、神の完全性の中に存在しています。この「悪の可能態」を消去することは、神の完全性そのものが消去することを意味しています。可能態はある一つのものが存在すると同時に、生じるのです。「存在する」ということは「不在」ということを可能態としては、すでに有しているのです。そこで「不在という可能態」を消去することは存在そのもの消滅させること、を意味しています。神が創造するということは、この悪の可能態が悪の事実態へと変化していくことでもあります。宇宙が進化発展するということ、歴史が動き始めるということ、人間が誕生し成長するということは、すでにこの悪の可能態が事実態に変化していくことです。宇宙が誕生するということはすでに宇宙が「崩壊する」ということを意味しているのです。事実、天地創造というのは、悪の始まりでもあるのです。母親の胎内に誕生するということは、もうすでに同時に胎児の中で、破壊活動が始まってるのです。

comment(0 )

ページのトップへ戻る