「金鱗の鰓を取り置く術」第2回ワークショップ 報告

P1060020

このワークショップを準備していて、今まで忘れていたことが、いろいろ呼び起こされました。その中で一番強烈によみがえってきたのは、どれほど、自分が20代の前半期にチベット寺院やゴビ砂漠やタクラマカン砂漠を放浪をしたかったか、ということです。理由は単純で、これらの地域には、人類が記憶している何万年以前かのことについての文献が眠っているからです。実際に、チベットのラサにあるポタラ宮殿は、まさにアレキサンドリア図書館に匹敵するような古代文献の宝庫でした。

ただ単なるロマンチシズムからではなくて、一体、人類が宗教などというものを発明する前に、地上には全く別の文化があったのではないか、ということです。宗教は何らかの意味で権威的になりがちですけれども、ひょっとしたら、それ以前の文化の中には、宗教などというものを作る以前の、もっと自由でありながら、それでいて、宇宙の根源に根差したような文化があったに違いないと思うからです。実際、そのような観点から、宗教以前の霊的文化の様々な文献を、この地域に探し求めたのは、ブラヴァツキ―夫人です。最近日本語に訳された彼女の、「シークレットドクトリン」のページをめくっていて、はたと、そのような自分に気づいたのです。

一般的に宗教というものが生まれたのは、人類が見霊能力を失ってしまった結果であることには、違いありません。

すべての感覚器官が霊界で生じていることや、宇宙の始まりや神々の心の中や、、存在の本質にまで到達できるような働きを有している時には、宗教などというものは、必要なかったのです。今日、人間同士が自由に話すように、その時人間は神々とも自由に会話できたからです。宗教が生じたのは、そのような能力を失ってしまったからに違いないのです。

この問題は現代を考えるうえで、とても重要です。今は宗教の時代ではありません。そうではなくて自由に人間が自分のカラダと無向き合い、そこで、カラダの中で生じている事柄と、世界の中で生じている事柄を同時に結びつけながら感覚することのできる、新しい感覚器官に目覚めることのほうが、先決です。

comment(0 )

ページのトップへ戻る

第一回「金鱗の鰓を取り置く術」ワークショップ報告

P1060016

「金鱗の鰓を取り置く術「」の第1回目のワークショップが1月27日に、第2回目が2月の17日に終わりました。
第1回目は、大峡谷に懸った巨大な鉄橋が壊れていて、その壊れた鉄橋に向かって突っ走っている急行列車を、今の時代になぞらえ、そのような時代において、「人間が存在する理由」が一体どこにあるのか、というような方向から話を始めました。
そのような時代であっても、日常生活は淡々と進んで行き、天体の運行は、整然と今まで通りに、何も変わっていません。

今回のワークショップは、このような時代に「世界に人間が存在する、根源的な根拠」が一体どこにあるのか、ということを、妥協なしにと「自己のカラダと対話する」という、趣旨で始めました。できるだけカラダを通して「感じとっていく「」という方向で進んでいきたいと思います。

始めに、歴史を動かしている「原理」というものがもしあるとするをならば、それを「弁証法」としてとらえ、弁証法を人間がを考案したものではなく、世界それ自身の自己認識の発展形式として、考えようと思います。私の思うには弁証法に、2種類あります。完全な理想主義的目的に向かって生ずる弁証法と、ひとつの時代の矛盾を解決してゆくことから生じる弁証法です。「金鱗の鰓を取り置く術」のワークショップにおいては、徹底的に前者の弁証法に立とうと思います。具体的には、
空間ー時間ーコトバ
能動ー受動ー能受動
自我ー非我ー合一
神皇ー人皇ー民

父ー子ー聖霊
呼気と吸気とその合一
自由ー平等ー愛
素材ー生命ー意識
黄色-青色ー緑色

まずこれらの三原理にたいする「身体感覚」を創造しながら、
歴史をその根底から解読、理解しようと思います。

comment(0 )

ページのトップへ戻る

ナポリの考古学博物館での笠井叡

ナポリの考古学博物館の笠井叡

comment(0 )

ページのトップへ戻る

闇に住み、一人血を吐く予言者  鈴木邦男

suzuki kunio
元々、身体がすべてだった。全てのことは、ここから発した。そうに違いない。喜びや哀しみや怒りも身体でもって表現された。だが、言葉や文字が発明されると、そこに保存され、記憶され、依存した。直接ぶつかり合う緊張感も生命感も落ちていった。だが、亡骸にすがりつく人間はいた。言葉や文章にまだ生命が宿っていると誤解・錯覚し空しい言論戦を展開したのだ。「そんなものは嘘だ!まやかしだ!」と喝破したが笠井だ。闇に住み、一人血を吐く予言者だ。革命家だ。言霊や文字を超えて表現する。絶叫するだ。そして今個人を超え、民族の生命に向かう。何と「古事記」に挑む。詩や文章だけでなく、歴史・神話に・生命を取り戻そうとする。これは、或いは恐ろしいことかもしれない。軽薄な言語や文章、思想に依拠して戦ってきた我々の足元をすくい、我々の存在すべてを否定するかもしれない。しかしそれでもいい。笠井に期待したい。この世の人々とその共同体としての民族に光をあて、生命を取り戻そうとするのは、笠井しかいない。そう思うからである。

「金鱗の鰓を取り置く術」推薦文

comment(0 )

ページのトップへ戻る