水越朋のダンス

昨夜、天使館で水越朋のダンスを観た。
木の床に置かれたメトロノームが音を刻む-カチカチ カチ-。スピーカーから聞こえるノイズ、水の音、鳥の鳴き声。混じり気のない、疑いを知らない、子鹿のような肢体、しなやかな動き………。さまざまな線が、曲線、円、直線、点、前に、後ろに、上に、下に描かれる。純粋な音とカラダと動きの透明空間から、仄かな香りと色が滲みでてくる。

今日の午後、史跡公園を一周り散歩しながら、ふと、水越朋のダンスする顔は、どことなくパウル・クレーの天使の顔に似ている、と心に浮かぶ。真っ青な冬空、冷たい風、大寒とはいえ、遠くの国分寺の杜の樹々は、確実に春のひかりを呼吸しるようだ。

 「青が深まるごと、なおいっそう人間に無限への思慮を呼び起し、純粋さや、ついに
  には超感覚的なものへの憧憬を喚起する。青は空の色なのだ」
            カンディンスキー 『芸術における精神的なもの』より

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冬の蝿

昨日はキラキラするような春めいた冬日。今日は冷たい曇天の冬。
数日前、キッチンの入り口から小さな蝿がひらひらと迷い込んできた。昼間はどこにいるのか、夕方寒くなると、私のおでこ付近を通り過ぎる。最初、疲れ目に起こる飛蚊か、と思った。手で払っても、また、ふらふらとおでこ付近を通り過ぎる。五月蝿いなぁ、と思いつつ放っておくといつの間にかどこかに飛んでいってしまう。ところが就寝時にまた現れ、私から離れようとしない。やれやれ、困ったものだ。昨年一年は、withコロナ&リウマチのダブルパンチの日々だったが、今年からは、Fliesまで加わるか…?
翌朝、蠅はすでにキッチンの中を飛んでいた。庭の方にとガラス戸を開けも、素早く高みに逃げて見えなくなる。アキラと朝食を食べ始めると、降りて来て、食卓の隅の陽だまりに止まった。「アキラ、急いで!」と新聞紙を丸めて手渡すと、加齢性黄斑症で視野が歪むアキラ、小さな蝿めがけてパッシ。空振り。再び、食卓に止まったところを、今度は命中。思わず、やったね!と安堵したものの、蝿だって、寒い夜は人肌の温もりが欲しいだろう、冷たい朝は太陽の暖かい恵みに与りたいだろう……などと身勝手なことを考えながら、withコロナ&リウマチの日が過ぎていく。

  冬の蝿

 凍る夜
 一匹の蝿われにきて
 掌のぬくもり盗む哀れさ

      詩集「赤鴉」 吉岡実

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お正月2日

昨年の暮れの25日に10歳年上の姉を亡くした。翌26、27日は天使館で、ピアニストの悠治さんとアキラのセッション、28日は、2月の公演「櫻の樹の下には」の稽古、引き続き、みんなで年の終わりの稽古納め乾杯。30日に亡くなった姉のお通夜、31日野辺送り。コロナ禍以来、時が動いたり止まったりの日々だったのに、突然の姉の訃報に、想いを馳せる時もなく、新しい年が明けた。
そして、今日は年が明けて2日目。私はいつものように、キッチンの椅子に座って、阪本さんに頂いた柚子茶を飲みながら、10歳年上の姉は、やっぱり立派だった……都立高校を優秀な成績で卒業したお父さん自慢の長女は、洋裁和裁お料理と花嫁修行で、小学生の私に、フリルのついた可愛い花柄のワンピース、ローウエストのちょっとおませな木綿のジャンバースカートなど、よく縫ってくれたなぁ……それなのに、末っ子の私は姉と正反対で、親きょうだいを心配させっ放しの逸れもので生きて来てしまったな。とうの昔父母を亡くし、下の姉も亡くし……、しだいに淡く消えていく冬の光をガラス越しに眺めていると、私のカラダのなかに決して交わることのなかった両親と姉たちの存在がスポッと入ってきて………。これでよかったんだ!と妙に深く納得した。
さて今年も、彼方から吹いてくる温かい風をいっぱい吸い込み、一歩一歩あゆんでいこう。

  すべてはすぎ去るものならば………

 すべてはすぎ去るものならば
 すぎ去るかりそめの歌を作ろう。
 わたしたちの渇きをしずめるものならば
 わたしたちの存在のあかしともなろう。

 わたしたちから去って行くものを
 愛と巧みをこめてうたおう。
 すみやかな別れより
 わたしたちみずからがすみやかな存在となろう。
          R.M.リルケ 『果樹園』より  高安国世訳

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