鈴木ユキオsolo incomplete live評2 笠井 叡

                 ダンス現在
        鈴木ユキオsolo  incomplete live 2020.7.5 天使館
               『不完全なライブ』

ソロダンスにおける流れの中の新しい展開は、しばしば見てる側にとっても、ダンサーにとっても予期せぬ形で生じる。たとえそれが構成上、その展開がもともと決まっていたものであろうと、決められた道を歩いていても、上から「落下物」が落ちるときは、落ちるのである。ライブが半分以上も経過した後に、鈴木ユキオは観客から見て左側面の鏡面にかかっている白いカーテンを、奥の方から数枚取り外した。多分これは、半ば予定していたことであったろう。しかし、その鏡面に何が落下してくるかは、誰にも決められない。何も落下してこなければ、いわゆる「予定調和」ということになる。落下してくるならば、鈴木ユキオの動きはたった1人で行っていながら、もう1人の未知の参加者がいるということになるだろうか。これはたとえダンスにおいて、鏡面の扱いを、たとえば「鏡の間」における能楽師のように、120%知り尽くしたダンサーと、鏡は鏡像を作り出すという、単純な光学現象で用いられるダンスとでは、その展開に大きな違いが生じうる。しかし、このことはダンスにおいて、鏡面の扱いを知っているという事が、必ずしも創造的に働くわけでもなく、また。鏡面を光学上の出来事としてのみ取り扱っているダンスにおいて、予期せぬ落下物が落ちてくる場合もありうる。

 
その時の、筆者の単純な印象からいうならば、これまでダンスにおいていろいろな鏡面を見てきたと思うが、これほど鮮やかで、新鮮で、驚きに満ちた鏡面とダンスの関係は初めてである。なぜこんなことが生じたのかといえば、鈴木ユキオが鏡面の扱いを、一切考慮していないからである。彼は鏡の光学現象を計算に入れてダンス したのであろうか。それとも、鏡とダンスの関係は観る側に自由に任せておいて、その全体の場の流れをカラダの中にただ、取り込もうとしたのであろうか。多分、そのいずれでもない。しかし、ここで生じたことは舞踊の本質に関わる、ある出来事である。なぜなら、人類に鏡が生じなければ、ダンスが生じなかったからである。ここが動物体と人体の一つの決定的な差である。どんな素晴らしい動きを行う動物、鳥であろうと、魚であろうと、はたまた象や犀や蝙蝠であろうと、動物体の動きはダンスとは言えない。ダンスは鏡を通して始まり、誕生したからである。動物に鏡の概念がないのは、動物は自分の姿を鏡に写しても、それに対して何の関心も示さない。あのライブにおける鏡面とダンサーとの間に生じたことは、彼のダンスの本質、或いはその出自、或いは未来の地平を暗示するものであるかもしれない。 

一体、何がその時生じたのか。これをコトバで説明するのは、むつかしい。幼児といえども鏡の前に立つならば、鏡に取り込まれる。途端に鏡を遊び道具の対象にしたり、写ること自体に単純に喜びを感じたりである。 しかし、その幼児が鏡に対する意識を、半分だけ削ぎ落したとするならば、そしてその外にある鏡面を幼児が体の中に沈めることができたとするならば、あのライブの中で生じた鏡シーンが再現されるかもしれない。 

キリスト教の異端の一つであるグノーシス派のポイマンドレ―ス神話においては、人間は宇宙内の存在ではなくて、宇宙外からやってきたものらしい。そして、宇宙の外側から天蓋を打ち破って、宇宙内部に入ろうとすると、そこに暗い水の表に映る自分の姿を初めて見るのである。不思議なことに。宇宙外からやってきたポイマンドレ―スは、まだ自分のカラダすなわち体を持っていない。覗き込んで水の鏡に映った時、自分の姿はを見て初めて、カラダが誕生する。つまり体が先にあってそこに鏡像が生まれるのではなく、その逆である。鏡像を見ることによって、カラダが誕生するのである。そしてポイマンドレ―スはその鏡像に、すなわち自分の姿に恋をすることによって、鏡像が実体になる。別の言い方をするならば、これがダンスの誕生である、と言っていいのではないだろうか。ダンスがダンスの根元に立ち帰ろうとする時には、常にこの鏡像が実像になるという過程をたどるのであろう。そしてこのことが、「創造することの本質」と結びついている。人体も宇宙も自然界もすべて、鏡像が実像になることによって創造されるのであろう。鈴木ユキオというダンサーが鏡面にかかっている、白い布を外して、再び鏡像から離れて建物の中心部に移動して、鏡の方に体を倒した時に、それまで外にあった下手側の鏡面が、私は錯覚かもしれないが、鈴木ユキオの体の中に転移したように見えた。無論それは彼が意図したことではない。しかし私の視線の中で、鏡像と実像が結びついたのである。それが錯覚であろうと、一つのリアリティを持って、そのように感じられた。そして、そのことによってそれまでの弓に矢を接ぐことなく、振動し続けた弓糸の持続した流れの中に、それまでとは、明らかに異なった要素が入り込んだのである。上から石が落下してきたのである。私は何か、それを見ていて、救われたような気分になった。それまで鈴木ユキオは天使館の内部にしか存在しなかったが、その時ポイマンドレ―スとは逆の、天使館の壁を打ち破って外の世界に飛び出たような気がした。それとともに、これまでの鋭い鉱物的爆発を続ける花火が、あたかも映像を見ているかのごとく、やわらかい線に変わり始めた。

ダンスはスポーツではない。直接的な目標に駆り立てられて生じる動きではない。的を射る必要もない。だからといって、すべての目的を有しない純粋運動であり続けることも不可である。なぜなら、純粋運動を持続すること自体は、すでに目的の中に組み込まれてしまうからである。このことを鈴木ユキオよく知悉していると思う。そしてしばしばその二律背反の中で、動きは時に苦悩に変わる。それらのカテゴリーをすべて誠実にたどっている、彼のダンスの態度が実にはっきりと見えたライブであった。室伏鴻とこのことを比較して考えてみるのは、酷なことかもしれない。しかし常に言葉に対して、否、nonをつきつけ続けた室伏鴻である。あえて言わせてもらえば、室伏の真骨頂は、「生きたままの死体」「生きたままの木乃伊」であって、鏡像ではない。室伏鴻はあくまで物体と重さに、そして重力にこだわり続けた。それは鈴木ユキオにおいても同じであろう。しかし今回のライブを見る限りにおいて、鏡面シーンにおいて、彼は明らかに重力そのものから、カラダを抜いたように見えた。そしてこの事を、観客として見る限りにおいて、彼は全く室伏鴻とは異なった道を、歩み始めたのである。