夏の終わり

8月の終わり天使館で、アキラがヨハネ黙示録のテキストで踊った。音楽は、ヨハン・セバスチャン・バッハ作曲「ヨハネ受難曲」

夕方、アキラと散歩に出た。雨の後の空気が、しっとりと重たい。灰色の雨雲が、国分寺の森一帯に垂れ込めている。横にいたアキラがーあぁ 終末の風景だーと、ボソッと呟いた。
雨が降り出した。西の空が真っ黒………早く帰らなければ………私たちは家の方に向かって、急いだ。

 「子羊が、第七の封印を解いたとき、天は半時間ほど静寂に包まれた」
                      (ヨハネによる黙示録 8章1節)

明日から9月。新しい月が始まる。

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今再び、シモーヌ・ヴェイユの言葉

シモーヌ・ヴェイユの「根をもつこと」を読む。岩波文庫の表紙カバーの文章に「ドイツ占領下の祖国再建のために起草した私的憲法案。亡命先で34歳の生涯を閉じたヴェイユ渾身の遺著」とある。
ヴェイユが亡くなった1943年の翌年生まれの私が34歳の頃、三人の男の子の子育て真っ最中の私にとって、ヴェイユの評伝から浮かんでくる、彼女の素晴らしい頭脳、容姿の美しさ、男勝りにタバコを吸うカッコ良さ、堪え難い偏頭痛持ちさえをも加えて、ヴェイユは、憧れの人だった。とはいえ、就寝前に読む「重力と恩寵」の数行は、私にとって、単なる甘美な睡眠薬だった。あれから、40数年経った今、コロナで閉じ込められ、壊れていくカラダを言い訳に、怠け者になりつつある私にとって、彼女の言葉は、私の魂の覚醒剤だ。
「根をもつこと」の第一部『魂の欲求』は「義務の観念は権利の観念に先立つ」と始まる。今日世の中で、先ず声高に叫ばれる「権利」は?と最初から考え込みながら「自分に救う手立てがあるときに、だれかを飢えの苦しみのうちに放置しない。これが人間にたいする永遠なる義務のひとつである」まで読んでほっとする。人間が創り出した文明に、いつの間にか人間自身が壊されていくような日々、ヴェイユの言葉から、諦めかけ眠りかけた私の頭に向かって、清々しい風がふいてくる。

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カラダが壊れてきた

猛暑の日々。昨日も明日もない。今日の中に過去も未来も詰め込んで、今を生きている。

いよいよ、カラダが壊れてきた。指の関節が脱臼して力が失せ、冷蔵庫が開けられなくなった。これは由々しいことだ! 自分のカラダのどこもかしこも壊れていくのを横目で見ながらも、面白いことがあれば、観たい、読みたい、聴きたい、行きたい、と心が動く。サポートなしには立ち行かないと知りながら……カラダを携えて生きていくのは、容易なことではないなぁ……などと、あれこれ思い巡らしている。

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嗚呼 ディートリンデ!

「ディートリンデが死んだ!」と、次男のレイジが伝えてきた。えっ………どうしたの? 何ですって⁉︎ ………「キルギスで。コロナで」………。

ディートリンデとどうやって知り合ったのか思い出せない。40年前、私たち家族がドイツに住み始めてから、彼女はいつも存在していた。彼女は出会った人に、分け隔てなく、自然に、当たり前に、心地よく、自分の存在を与える人だった。だから、私たちも自然に、当たり前に、心地よく、彼女の存在を呼吸してきた。
2年前の7月、20年振りに旅行でシュツトガルトを訪問して、ディートリンデに会った。少しも変わっていなかった。私は、知らず知らずのうちに彼女の大きな呼吸に包まれている自分に気づき………心の中で〈ディートリンデ あなたは、真に愛の人ね〉と呟いた。
別れ際、彼女は「ヒサコ 今度、キルギスの子どもたちに会いにいくの。一緒に歌って踊るのよ」と言って、私を強くハグした。それが最期だった。
ディートリンデは、美しい人、温かい人、優しい人、強い人、ドイツ人でもあり日本人でもあり、キルギスの人でもあり………愛の人。
今夜も私は、星空に広がったディートリンデの存在を呼吸している。

40年前、ディートリンデが私に編んでくれた。今でも暖かく美しく私を包んでくれる。

40年前、ディートリンデが私に編んでくれた。今でも暖かく美しく私を包んでくれる。

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ユルスナールとトーマス・マン

トーマス・マンの「魔の山」の主人公ハンス・カストルプと、もう随分長く付き合っている。20代で読み始め、即、挫折。30代、40代、50代、60代と代を重ねる度に、読み返しと休止の繰り返し………。77歳になろうとする今も、ハンス・カストルプくんが気になる。どうしてかしら?
今年の春に須賀敦子さんに導かれて、マルグリット・ユルスナールの著作を読むうちに、私にぴったりの服に出会ったような嬉しさで、すっかりユルスナールに夢中になった。マンが頭から消えている時、古本で見つけたユルスナールコレクションの「目を見開いて」の中で、著者がトーマス・マンについて「マンの人柄のなかには私にとって不快な要素も無数にあります。私がこの作家を発見したのはかなり遅かったのですが、非常に違う見方から出発していながら、私たちの仕事のやり方というか方法がかなり近いとわかったときには、もちろん驚嘆しました」と語っているのを読んだ。他の箇所でも度々マンの名前が登場する。半世紀前からトーマス・マンを引っ張ってきた私が、後期高齢者になった今、ユルスナールに出会とは‼︎

ユルスナールは、圧倒的なイマジネーションの渦を、壊れかけた私のからだに流し込む。
トーマス・マンは、山の天気のように気まぐれな私の頭腦に、時折、明澄な風景を私に示してくれる。
共に19世紀末から20世紀にかけて生きた二人の先達が、今を生きる私を彼方の未来から見ていてくれる………。

「私たちはみんな似た者同士ですし、同じ終焉に向かって歩いているのです」
                        ーマルグリット・ユルスナールー
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自分の中に見えない他者が住んでいた。

ミツタケが、先日車で連れていってくれた秩父の町の食堂で、私がオムレツを食べているところを撮った(盗撮⁉︎)動画を、LINEで送ってきた。うひゃ〜これ誰? 黄色い小型ラグビーボール形のオムレツの上に、顔を突っ込まんばかりに近づけて、両手をちょこんとお皿の両脇に置き、ねじ曲がった指でスプーンを器用に動かし、何やらおしゃべりをしながら、子どものようにオムレツご飯を美味しそうに食べている。
自分のからだは、直接自分で見ることはできない。まして自分が動いている姿を見られるはずがない。
この度、自分が動いている姿を目撃して、びっくりするやら可笑しいやら………映像の中の、自分と全く結びつかない老女が限りなく愛おしくなってきて………自分の中に見えない他者が住んでいる!

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