EURYTHMIE WS 11 IN HP akira kasai 5/16

akira

WS  11
おはようございます。今朝は、しっとりとした、雨。。。
国分寺の天使館は、ちょっとした観光地「お鷹の道」(昔、江戸の将軍が鷹狩をしたところ)のそばに立っています。この「お鷹の道」は多分2000年くらい前からある疎水の脇の道で、その疏水の水源は小高い崖の麓の湧き水です。その疎水の脇に古い農家があり、今朝は、そこで赤カブ、ルッコラ、小松菜と大根を購入して帰ってきました。その農家のおじさんは、私の小学校時代の先輩なので、国分寺の主のような、山で言えば、おとなしい熊のような人です。

もう、ご存知だと思いますが、検察幹部が一定年齢に達しても、政府の判断でそのポストにとどまれる特例を、現政府は新設しようとしています。この「検察庁法改正案」は、白紙にすべき法案です。こんなものを認めたら、日本の三権分立はその時点で崩壊です。カラダの三権分立で言えば、感覚神経系と呼吸循環器系と消化器系はそれぞれ自立して営んでいるから、カラダ全体の結びつきが正しく保てるのです。この法案は、頭の感覚神経系で、食べた食物を消化しようとしているほど、不自然なことです。こんな時期に、こんな法案を出すとは、ほんとにこの政府は狂っています。

ワークショップです。
古代インドで発達したヨガには、主としてバクティーヨガと呼ばれるものと、ラージャヨガと呼ばれるれる2種類があります。もちろん、ヨガには他にも沢山種類があるわけですけれども。簡単に、言ってしまえばバクティーヨガは仏教で言えば、在家ヨガで、ラージャヨガは出家ヨガみたいなものです。別に出家したから、こちらの方が高度で、出家していない在家だから低次などということありません。むしろ逆かもしれません。なぜならば、ラージャヨガというのは、家族や社会を捨てて全く孤独に山にこもって、何年間も身体訓練や瞑想の訓練を行うわけですから、どちらかというとし、社会の中で行うより楽なのです。バクティ―ヨガは、社会生活、家族生活を行いながらも、同時に高度な精神的領域に入っていくわけですから、こちらの方が困難ですよね。
バクティーヨガは、与えられたものに対する帰依と感謝と、信愛が基調になっていると思います。自分の周りを取り囲んでいる自然界や星々や天界のすべての営みは、自分で創ったものではないから、すべて感謝の対象です。自分のカラダも同じです。ひたすら与えられた身体に感謝と畏敬、帰依を持って日々向かっていくことによって、バクティーヨガは成り立っています。それに対してラージャヨガは身体に対する向かい方が全く異なっています。基本は与えられたものの「存在の根拠」を理解することです。自然界であるならば、自然界が存在する根拠を、自然界の創造の根源にまでさかのぼって理解すること。なぜカラダが存在するのかを、カラダの内部からカラダを観察し、宇宙にカラダが生まれるその瞬間に、カラダの内部から、立ち会おうとすることです。ですから、カラダでこんな面白い動きができるという事よりも、「動き」が生まれ出る誕生の瞬間に立ち会いつつ「動きの本質」に向かおうとすることです。哲学者であるなら、思考が生まれいずる瞬間に立ち会うこと、写真家であるならば、見ることそのものを訓練することによって、映像の本質にまでいたろうとすること、音楽家であれば、聞くことそのものに対する絶え間ない自己訓練を通して、音楽が生まれいずるその瞬間に何が起きているのかを、理解しようとすること。なんか、ラージャヨガの方が、むつかしソオですね。

オイリュトミーはバクティ―的でしょうか。ラージャ的でしょうか。徹底して、ラージャ的です。もちろん、バクティの要素が必要ではないと、考えてるわけではありません。基調になるのがラージャ的なのです。なぜかと言いますと、古代のインド では、神々が宇宙を創り始めて、それがまだ完成しておらず、日々、神々の力が地上に降り注いでいる時には、人間はそれを帰依の感情で常に受け止め続けなければなりません。信愛と感謝の気持ちでそれと常に結びついていなければならないのです。だから、バクティなのです。けれども、この20世紀の情報化の時代において、もはや神々が創造するものは何一つありません。神は AI など作れません。すべて人間の創造です。待っていても何もやって来ない時代です。その時には、人間は待ち望むだけ、受け入れるだけではも事足りません。自らが創造者となって、自分のカラダを、宇宙を、大自然を、神に代わって創造しなければならない時代です。神の創造の本質を、人間が理解し、その何万分の1でも、与えられる存在から、与える側に働きかけようとしなければならないのが、現代という時代だからです。大変前置きが長くなってしまいました。課題に入ります。

1、  心の振動がゼロの、完璧な静寂を「創造する。」
自分の中から「静寂」を生み出すのではなく、自分が「存在する以前の静寂」。そしてその静寂の中から、自分が生まれてきたのです。自然が生まれてきたのです。この自分以前の静寂とは、自分が出会ったことのない「未知の静寂」。これがすべての出発です。
心の中に生まれる静寂は、糸をピンと張った静寂です。その糸を、心のハサミで切るのです。

2、何時までも、この静寂が何も「創造しなければ」そこまでです。その静寂が「創造を始めるならば」その創造に全聴覚を集中します。全身の毛細血管の中から「原声」が誕生します。その時、その声に自分の声を交えないように、声が自分以外の「純粋創造」であり続けます。

3、この「原声」にオイリュトミーの M 動作とともに、M声を加えます。M声は完全鼻声です。鼻をつまんだら、声も出ません。純粋に鼻腔だけで発声し、口腔を使用しません。交えません。
原声+M
4、 原声とMをまぜ合わしたところに、L動作とともに、L声を加えます。L声は完全口腔声です。鼻腔を使用しません。
原声+M+L
5、 こうして出来上がった声に、R動作とともに、R声を加えます。R声は腹部の新陳代謝の働きと頭部の感覚神経系を円形に結ぶ働きをします。力を二カ所を通過するように、円形にまわします。1回ずつ「原声」から始めます。
原声+M+L+R
6、 この声にS動作とともにS声を加えます。Sの動作は線的に動きます。
原声+M+L+R+S
7、この声にH声を加えます。H声はS声とは反対に、全空間に広げます。
原声+M+L+R+S+H
新しい声を加えるときに、以前の声はカラダの中に気分として残っていれば十分です。完全に身体感覚として記憶する必要はありません。このようなやり方であと三つの声CH+F+SCHを加えていきます。
8、 原声+M+L+R+S+H+CH
9、 原声+M+L+R+S+H+CH+F
10、原声+M+L+R+S+H+CH+F+SCH
呼吸はできるだけゆっくり、エフェソス声(声を発声せずに、声の力だけを息にのせる動作発声)を持続させながら、行います。忍耐力とともに、丁寧にゆっくり身体動作を行います。